玉楮象谷 (たまかじぞうこく)玉楮象谷翁は約170年前の文化4年(1807年)10月4日、高松市外磨屋町で藤川理右衛門の長男として生まれ、若い頃から父のもとで鞘(さや)塗りを修業するかたわら鎌倉彫(かまくらぼり)風の木彫や、彫漆の研究に専念していました。 文政9年20歳の頃、象谷翁は京都に遊学し、都の塗師や彫刻師、絵師、焼き物師など更にこれらの人々を通して歌人や学者との交友を広め、特に陶芸家として有名な永楽保全とは気が合い、保全の親友で大徳寺の高僧、大綱和尚にも大変気にいられていました。象谷翁はまた、東本願寺の雲華和尚の指導のもと、口添えで多くの神社仏閣にある古今東西の有名な美術工芸品等を自由に見る機会にも恵まれ、この間、書画はもとより美術工芸のあらゆる分野にわたって接したことは後年の作品に強く影響するところがあったようです。 象谷翁はしばらく大阪の山中という、当時外国貿易も行ない全国から屈指の名工達を集め、高級美術品の製作や、外国古美術の修理や写しをしていた商会へ入り、海外の珍らしい数々の作品に触れ、鑑識眼を高めるとともに更に腕をみがきました。その間、中国の宋、元時代の堆朱(ついしゅ)、堆黒(ついこく)などの彫漆(ちょうしつ)技法や、明時代の存清(ぞんせい)、南方渡来の蒟醤(きんま)などのきゅう漆法を多面にわたって研究しました。 象谷翁は時の高松藩主、松平頼恕候に仕えその優れた技術が認められて30歳で帯刀を許され、さらに34歳の時に献上した犀角(さいのつの)の印籠が大変すばらしい出来ばえであったことから「玉楮」の姓を賜わりました。その玉楮姓の由来は、中国宋代の名工が「玉」で三年かかって楮の葉の形の盆を作り皇帝に献上し、工人として召しかかえられたという故事から、玉の字と楮の字を続け玉楮とされたものと伝えられています。象谷翁は明治2年2月1日、64歳で没するまで、常にきゅう漆法の究明に励み、歴代高松藩主(松平頼恕、頼胤、頼聡)に仕え、300有余点の名品を献上しました。中でも蒟醤(きんま)と存清(ぞんせい)の技法は研究を重ね、独自の創意工夫をこらしてわが国でも先例のない技法を開き、香川県に於ける漆芸技法の基礎を築き上げたのです。 県内で漆芸にたでずさわる人達の間では現在でも玉楮象谷翁を始祖と仰いで尊敬しています。高松市内中央公園の一角には象谷翁の銅像が建立され、毎年春には象谷忌茶会が盛大に催されています。象谷翁の作、蒟醤(きんま)の「料紙箱並硯箱」等は現在国の重要美術品に指定され、高松城にある松平公益会記念館に保存されています。 藤川黒斉 (ふじかわこくさい)玉楮象谷翁の実弟にあたり、文化4年に藤川理右衛門の次男として生まれました。黒斉は讃岐彫りの名匠といわれ、兄象谷と 幼少時代から家業のかたわら、木彫、竹彫、堆朱、堆黒などを研究し、同時に蒟醤(きんま)や存清(ぞんせい)などの技法を修業していきました。天保10年象谷翁が時の藩主松平頼胤候より玉楮の姓を賜った際に、黒斉は藤川家を継いで分家し、同時に兄、象谷翁から蒟醤(きんま)や存清(ぞんせい)の技法を受け継ぎ高級漆器の製作を家業としました。明治に入り、黒斉は漆器の商品化を図り、「讃岐蒟醤、存清漆器」として全国に紹介したのです。 明治17年11月3日、生涯をとじるまで兄、象谷翁が創始した讃岐独特のきゅう漆法を産業化し、広く普及させ、今日の香川特産漆器の礎を築いた功績は偉大でした。また黒斉の長男、新造も父の後を継ぎ、文綺堂と名のり父を助けて家業に励み、明治20年にはフランス万国博覧会へ蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)漆器を出品し、海外にまでその真価を認めさせたのです。
後藤太平 (ごとうたへい)後藤太平翁は、嘉永3年3日12日、高松藩士後藤健太郎の次男として生まれました。父は高松藩の奉行職につき、茶道にも優れ、玉椿象谷翁とも親交があったようです。幼少時代から芸術の才能に富み、不世出の巨匠、象谷翁に彫刻の技を学び、いろいろな技法を探究しました。また太平翁は、煎茶や盆栽にも趣味を持ち、支那風の書画、骨董を集めるといった風流な人柄でもありました。当時、讃岐には代表的な産物がなかったことから、翁は専ら「のみ」「ちょんな」などを用いて彫抜盆を発明し、以来数10年に渡って研究を重ね、大正12年6日7日、70年の生涯を閉じるまで、讃岐の特産品としての質を高めたのです。明治の頃には、堅牢で絶対に剥げない特殊な朱の塗り方「後藤塗」を発案し一定の階級と範囲内にしか用いられていなかった漆器を一般大衆化して、香川の漆器産業を興したのです。現在「後藤塗」は、塗りの堅牢さから、各種の家庭用品や家具にまで塗られ、香川県の特産漆器として全国津々浦々にまで知られています。
磯井如真 (いそいじょしん)磯井如真氏は明治16年、高松市に生まれ16才の頃から漆の仕事に従事していました。明治36年に香川県立工芸学校漆工科(現在、県立高松工芸高校漆芸科)を卒業し、大阪の商会で漆芸の技術を修得したのです。戦後は岡山大学教育学部の教授となり、そのかたわら自宅の工房でも、漆芸の研究に没頭し、幾多の名品を残しました。如真氏は、人情深く温厚な人柄でしたが、漆芸に対してはひたすらその道を究め、どこまでもやり遂げる強固な意志を持った人でした。昭和39年8月23日、脳出血のため81歳の生涯を終えるまで仕事への愛情に打ち込まれ、この年に従五位勲4等日綬章が贈られ、翌40年には香川県立漆芸研究所の一角に胸像が建立されました。 また如真氏の活動は多彩で、昭和4年に香川県立漆芸研究所の技師となり、その年に帝国美術展に初入選以来毎年入選、特選され、昭和9年、商工省より香川県の商工技師となり、また漆芸の研究を志す人達20名によって「たくみ会」を結成、香川漆芸の基礎を築き上げたのです。その後、文部省美術展鑑査作家に推薦され、昭和21年に日展招待作家となり、昭和24年には審査員になりました。 昭和31年に国から蒟醤(きんま)の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に指定され、翌33年、香川県の文化功労者として県知事より表彰されています。如真氏の代表的な名作「彫漆石楠花之図手箱」「蒟醤龍鳳凰八角香盆」「蒟醤監草花文八角喰籠」などは、世界にも誇るもので、昭和36年、高松の姉妹都市になったセントピーターズバーグ市に「乾漆きんま水指」を贈り日米親善の一役をに担ったことも有名です。 |